昭和五十二年八月二十四日 朝の御理解 第十八節


 此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。


 昨日の朝の御理解もここでしたね。ここのところを、「此方がおかげの受けはじめである。」という金光大神のお言葉を、私は今日、私がおかげを受けておるということ。だからここでは私が此方である。此方が合楽でこの様におかげを受けておることを、まあせめて、教祖生神金光大神様というところの一つの過程として、私がおかげを受けておる事実と、またおかげを受けてきた信心の道すがらというか、いうものを皆が体得して欲しい。私ぐらいな人間でも、ここまでは頂けるんだから、皆さんの場合にはもう、より素晴らしいおかげが受けられるだろうという様な御理解でしたよね。
 今日は一つ、私は、ここのところをね、「ここに神が生まれる。生神とはここに神が生まれる。」ということであってと、まあいうところを一つ聞いて頂きたいと思う。信心をさせて頂いとりますと、どこから湧いてくるか分からん様な、喜びにひたらせて頂くことがございます。または、おかげを頂いて、もうそれこそ夢にも思わない様なおかげを頂いて、感激にむせぶとい様なこともございます。けれども、ここで言う生神とは、ここに神が生まれるということであってということは、生神の境地というのは、丁度丸い手毬の様なものに、喜びという字を書いて、どちらへ回しても喜びだけしか出てこないという境地を生神の境地だと言われておるんですが、今日はここんところを、もう一つ追及してみてです。只、今申します様に信心をしておれば、どこから湧いてくるか分からん様な有難い喜びが頂けれる、感じれる時がある。または夢にも思わなかった様なおかげを頂いて、おかげを頂く。
 昨日も福岡の松岡さんの息子の嫁さんのお父さんが胃癌で病院に行かれました。もう一月も前の話だったでしょうか。ところが、もうあまりに進んでおるから手術も出来ん。だからこのままにということであった。ところが、ここにお願いに来る様にだんだんなりましたら、この方はある教会におかげを頂いておる方なんです。そこでここにお願いに参る様になりましたら、非常に病状が変わってきた。第一、御飯が頂ける様になった。顔色が良くなった。そこでもう一遍診察をしてみろうということになって、まあ診察をされて、そしてこれはまあ不思議に良くなって行きよるというわけ。だから、あの手術をしてみろということになった。昨日も兄弟夫婦で朝のお参りをして、また今から手術にかかるからと昼も参ってきて、それからまた午後から昨日は久留米から三回参って来た。だからそんなわけであったから、親戚の方達にもその手術が失敗したら、その失敗した時がもう息が切れる時という言い渡しがあっとった。昨日朝と昼まではそういうお届けであった。夕べお参りでなくて電話が掛かってきた。ところが手術をしたところが、もうそれこそスムーズに、そして開けてみたところが、大変おかげを頂いておるという事実が分かった。それで無事に手術が済むだけでなくて、これはまた何年か、これで生き延びることが出来るというところまで分かったというお届けがあっとりますね。
 ですから本人は分からないとしても、周囲の子供達やら家内達やらは、もうそれこそ感激にむせんで喜んどるわけです。まあそういう例はいくらもありましょうけれども、なら特別のおかげを頂いて、有難い生命を頂いたとか、道が開けたとかという。これを喜ばない者はありませんけれども、そういう喜びが開けたからというて、ならさっき生神とは、喜びという字を一杯書いて、くるくる回す様なもんだ。もう喜びだけしか出てこんのだという喜びとはちょっと違う。また信心さして頂いとれば、それこそどこから湧いてくるか分からん様な喜びにひたることがあるけれども、それがつかの間のものであって、また不安になったり、いうなら焦燥が起こって参りましたり、いうなら不平不足までも起こって来る様な、そんな変わる様な喜びじゃないのです。ここに神が生まれるということは、いわば真に有難いと思う心なんです。真とはまことと書いてあるね。いうならばまことの喜びなんです。なら真の喜びとはどういうことかと申しますとね。それが消えることのない喜び。いわば不壊の喜びということにもなりましょう。壊れない、そしてみると生神とは大変なことだなと思うですね。金光様の御信心、信奉者のすべてが生神を目指すんだと。金光様の御信心は生神を目指すということなんだね。只おかげを頂けば良いというのではなくて、生神を目指すということなんですね。 そこで私は、昨日お月次祭に皆さんに聞いて頂いた御理解を、夕べまた改めて、頂いてみました。そしてあの冒頭に申しました様に、天と地が一つになって喜び合う時、鶴亀の舞い遊ぶ様なおかげという御理解を昨日頂きましたよね。天と地が一つになる。天と地が喜び合う。それを合楽の社会だと申しました。そこにそれこそ赤飯炊いて祝う様な心の状態が開けてくる。昨日もそこのところをちょっと申しましたが、いわゆる御理解三節ですね。「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子居っておかげを知らず。」と。ですから天地の親神様の天地の中にあるもの、これは人だけではありません。すべての動植物、生きとし生けるものがです。いわゆる天地の親神様の御恩恵を受け取らないものはありません。その御恩恵を受けておるということを知らず、考えてみると、こうやって目には見えないけれども、吸わせて頂いとる空気だって、毎日ふんだんに使わせて頂いとるお水だって、一粒のお米だって、天地の御恩恵なしに出来ておるものはないのだと。言えば分かれば、すぐ誰でも分かることなんだけれども、いうならばそれとは反対のことです。 昨日は黙って治めるということを聞いて貰いましたね。そこの合楽食堂の中村さんが、もうギリギリこんな材料は使われないといった様な材料を持って来られたけれども、黙って治めるという御理解を頂いた日でありましたから、それを黙って受けたね。ホルモン料理屋をしておられるね。ところが、何人かのお客さんから、「おばさん、今日のとはえらい美味しかばい。今日のとが一番美味しかごとある。」という様な、そのお客さんから聞いてね、改めて、いわば祈るということ、または教えを行ずるということの素晴らしさを感じたね。それからその日一日の売上げをずーっとホルモン料理だけのそれを控えてみた。ところが同じ量の仕入れる、お肉ならお肉でです。今日のその日の売上げが一番多かったという事実にもふれた。もちろんそういう悪い材料でしたからもう、とにかく一生懸命神様にお願いをして、切ることも作ることもお客さんに出すことも、祈りに祈って出させて頂いたが、神様の教えを守るということは、こんなにも素晴らしいことだろうかという体験のお礼を、昨日なさったというお話をしました。ですからいうてみると、その悪い材料であったそのこと自体も、おかげであるということが分かります。明くる日、昨日のとが悪かったからというて、最高の材料を持って来て頂いた、と昨日言っておられます。その人間が見て最高の材料と思うものも、または最低と思うものも、実をいうたらおかげであるということが分かった。神様のおかげさえ頂けばということが分かった。同時に教えを守るということは、こんなにも素晴らしい事かと分かった。
 「天地の間に氏子おっておかげを知らず。」というのは、自分の都合の良いことはおかげであり、説明を受ければ誰でも分かる。なら天地のこの御恩恵の中には、空気とか水とかお米とかね。お互いが衣食住に必ず使わなければならない、必要であるといった様な一切のものが天地の親神様の御恩恵の中から生まれておるのである。ところがね、その御恩恵の中にはね、いうならば病気でもやはり御恩恵だということです。困ったこと、自分には嫌なことと思う様なことであっても、やはり「天地の間に氏子おっておかげを知らず。」というのは、そういうすべてが有難い、だから信心をさせて頂いて、あれもおかげであった、これもおかげであったと分かる様になると、真の信者、本当の信者じゃとおっしゃっとられます。あれもおかげ、これもおかげと分かる。真に有難いというのは、そういう心の状態です。今日私が言う、自分の心の中に喜びが湧いて来る。おかげを頂いて有難いなあと思う、という喜びではなくてです。あれもおかげであった、これもおかげであったと分かる様になると、本当の信者じゃというその喜びこそが有難い、ここに生神が誕生するということになるのですね。
 だから私共信心させて頂いて、様々な事の中にです。なら中村さんの場合は、ああおかげであったという時には、もうその喜びは生神の心の状態ね。そういう真に有難いという心が、体験を積んだ上にも積んで、いうならいよいよ真に有難い、真の喜び、まことの喜びというものが、心の中に育って来る。いうなら生神が誕生。そして生神が育って行くという。そしてその生神が、いうなら大人になった時が生神の境地でしょうね。お互いの場合は、そこのところを行ったり来たりしとるわけです。「真に有難いと思う心、すぐにみかげのはじめ。」と。私は思わせて頂きますのにね。昨日からそのことをしきりに考えたんですけれども、もう本当にその人間業では勿論どうにも出来ないのですけれども、それを普通では奇跡とこう申しますが、もうそれこそ凄まじい神様の働きを受けるということは、これは真に有難いという心、それが例えば、そこに難儀と思うておったそのこともおかげと分からせて頂く様な心の状態、天と地が一つになって喜び合うということは、天と地が一つになって喜ぶということは、合楽の世界、交流する世界。只向かい合っておるだけというではない。これが交流する世界。天と地が一つになって喜び合うということ。そういう時にはです。お互いが信心によって段々信心の喜びの心が本当なものになって行く。そして普通の人ならば嘆き悲しむ様なことであっても、それを神愛として受けていけれる信心、それを神様の、いうなら「天地の間に氏子おっておかげを知らず。」とおっしゃる、そのおかげをおかげと分からせて頂いた時に、起こってくる環境と申しますかね、心の状態が天地と交流した時に生まれてくる、いうならば本当のことが分かた時に、天地の親神様がそれこそ喜んで下さる。そこにいうならば、隨気の涙、歓喜の涙という様な喜びが生まれて来る。おかげであんなに不平を言うておる。お礼を申し上げねばならんことじゃないかと思うてもお礼が言えん。分かっちゃおれども、お礼が言えない、喜びがわいて来ないという時には、まだ分かっておるだけで、本当のものじゃない。そのことが神愛と分からせて頂く時に、「天地の間に氏子おっておかげを知らず。」。
 なら天地の間に氏子おって、おかげを知った時に初めて、天地との交流というのが起こるんだということを、昨日改めて分からせて頂いた。例えば病院で医者だ薬だと言うておる人が、もう医者も助からんと言うのなら、もう医者も。例えて合楽食堂の話が出とりますから、あちらのお婆さんが乳癌という時に、医者をもう振り捨てて、逃げて帰ってくるといった様な時、また御本人はバセドー氏病という、目が飛び出して、喉がおかしくなるという病気です。現代の医学では、これもどうにも決定的な治療法がないといわれる難しい病気なんです。その病気の時に、もう医者にも、もうそれもね、もういよいよ声が出らなくなった時に、お願いに来た時に、「中村さん、声の出らんとがおかげよ。」と私が申しました。「もういよいよ黙って治められるじゃないか。声の出らんことがおかげだよ。」。その声が出らんことがおかげだよと言われた途端にね、ここに喜びがわいてきたわけです。もう親先生のその一言で、それこそ胸に釘打つ様なというけれども、それよりももっと素晴らしい心の中にその一言が入ってきて、今まで不安で不安でたまらなかったものが、不安を打ち消すことになった。そういう時にです。私は起こってくるおかげというのが、天地と交流するんだなあということです。
 だからね、具合が悪い、お薬を飲むという時には、おかげを頂きます。お薬とてもやっぱり御恩恵のものですから。けれども神様を信じ切る。親先生の一言を神の一言として頂けた時です。薬もいらなければ、医者もいらないという程しの、これは病気の場合ですよ。いろんな事件ごととか、人間関係とか、問題といった様な場合でも、同じ事が言えますね。もう縋ることは、この方御一人と心に定めさせて頂いて、起こってくる環境、喜び、そういう喜びが、いうならば生神の誕生なんです。だから天地と交流するのです。だから現代医学ではどうにも出来ないという、いうならば奇跡、「信心してみかげのあるのを不思議とは言うまじきものぞ。」と、「信心してみかげのない時こそ不思議なることぞ。」とおっしゃる様にです。もう実をいうたら、奇跡というものはない。そういう心の状態になった時に、そういうおかげが受けられるのは当然。そういうおかげが受けられた時に、初めておかげをおかげと分かった時ではないでしょうかね。ですから天地に交流するわけです。天地が一つになって喜び合える時です。本当のことが分かったと、神様が思召して、神様が心の中に小躍りして喜びなさるその喜びが、氏子の上に伝わって来るその喜びをもって、私は生神という。「生神とはここに神が生まれるということであって」という喜びだと思うんです。
 だからどうでも神様をいよいよ信じ切ってですね、もう本当におかげでいろんなどんな問題があっても、あの人に頼もう、この人に縋ろうといった様なものではなくて、神様にお縋りしぬかせて頂くということ。どんなに例えば人間生身を持っておりますから、病気を致しますけれども、医者でもなからなければ薬でもない。もう神様のおかげを頂かなければという時にです。いうならば黙って治めるといった様な修行が出来ると致しましょうか。そこに素晴らしい治まりが出来る様になり、素晴らしいおかげの世界が開けてくる。これはね、只お取次ぎを頂いて、お願いしておかげを頂いたというおかげではなくて、いうならば「ままよという心になれよ。」と。「ままよとは死んでもままよのことぞ。」と。「そういう心にならんと十二分の徳は受けられん。」と教祖がおっしゃる。今日はそのことなんですね。医者でもなからなきゃ、薬でもない。どういう問題であっても神様にお縋りしぬくという腹が決まった時、スッキリと腹が決まった時、いうならままよという心になった、死んでもままよのという心は、もうどうなっても構わんという、いうならば親先生一筋、神様一心ということになる。神様、金光大神様、親先生そして皆さんと一貫したルートが、おかげのルートが出来るわけなんです。 十二分の徳を受けようと思えば、だから十分のおかげを受けようと思えば、薬を飲んでもよか、人に頼んでもよか、お願いをしてお取次ぎ頂いて、おかげを頂く、またそういう時もなからなければ、私共は出来ませんけれども、いよいよの時に、ここはという様な時には、本気でままよという心を出さして、いわゆる潔い心なんですね。そこに一心にお縋りをする。いわゆる証しが立てられる時に初めて天地が感動まします。そういう時に、初めて天地との交流が始まった時です。そこにはいよいよ鶴亀の舞い遊ぶ様なおかげにもなってくるわけです。
 今日はもう、いうならばお道の信心で難しいというなら、もうこれ程難しいことはないという話を聞いて頂いたんです。本当に生神様へならせて頂くことのための精進、そのためには自分が頂いておる喜びというものは本なものじゃない。おかげには繋がっても、お徳には繋がらない。お徳に繋がる喜びというのは真に有難いという心だ。真に有難いという心は、どんなことがあっても崩れない不壊の喜びである、そういう喜びを頂かせて頂くことのために、いよいよ合楽理念をマスターする、合楽理念を行じて行く、もう合楽理念はそこんところへ近付いて行く手立てになるお話だけがあるのです。いうなら和賀心、和らぎ賀ぶ心にならせて頂くことのために、いうなら「天地日月の心になること肝要。」といった様な、難しい御教えもです。さほど難しいとは思わん、楽しう嬉しう天の心、地の心、自分の心に頂いて行こうという精進心がある限り、誰でも出来る見易い信心ということになるのです。そこに真に有難い、今日は、天地書附の「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず。」、そのおかげを知るということが金光教の信心だ。それは自分の都合の良いことがおかげではなくて、天地間の間に起きてくるすべてのこと、しかも自分の身上、自分の身の上に起きてくるその問題が痛いことであれ、痒いことであれ、それが一切神愛であると分からせて頂いた時に、おかげを知らずじゃなくて、おかげを知るということになるのです。そのおかげが分かった時にです、真に有難いという神様の感動がこちらへ伝わって来る喜びを今日は、「生神とはここに神が生まれるということ。」であって、と言われる生神様がもう心の中に誕生したんだ。その喜びをいよいよ不壊のものに、壊れないものに育てて行こうという精進が、金光様の御信心だ。おかげを頂くんじゃない、信心を頂くということになって来ると、それが出来るのです。様々な問題を通して、その問題を通して、信心を分からせて頂くということなんです。
 昨日はその、いうならば見易いという、この生神への道を聞いて頂いたんですよね。それはまず生神様を目指さず、まず親先生を目指せ。私が行うて来たこと、私がおかげを受けておる。この位のおかげならば、皆さんなら、その気になりゃもっとおかげを頂けれる。なぜって、私より皆さんの方が偉いから、立派だからなんです。ですから今日の御理解の、いうならば一つの足掛かりともなる御教えが、昨日のこの十八節でした。今日の十八節はそこんところを飛び越えて、いよいよギリギリ生神へという信心をです。「生神とはここに神が生まれるということであって。」と。生神とは普通でいう生神様。雲や霞を食べてござるといった様な神様。白髪をこう生やしてござるという神様、そういう神様ではなくて、生々しい瑞々しいまでのです。真に有難いという喜びの心が湧いてくる程しの心の状態を、今生神の誕生であると悟らせて頂いて、いよいよ真に有難いという、心の上に喜びの追求をして行く、そして生神へ向って行く。この世で出来なければ、霊の世界に入ってでも、これは続けて行くことが出来るのですね。そこに限りないおかげが約束される。限りない光、力が与えられるのです。私共が有難いと思うておる心をもう一遍検討してみて、これが果たして、只おかげを頂いて、有難いと思うておるのか、壊れることのないこの喜びであるのかを確かめながら、いよいよ真に有難いという心を追及して行かなければならんと思うですね。どうぞ。